【クリエイティブ・カンパニー ネイキッドのブランド論 第1回】
映像制作から始まり、現在はプロジェクションマッピングまで幅広い制作事業を手がける「クリエイティブ・カンパニー」こと、株式会社ネイキッド。代表の村松亮太郎氏に、起業のきっかけやネイキッドの世界観などを、パーソナル・ベンチャー・キャピタル代表で、BRAND THINKINGでも連載を持つチカイケ氏が迫った。
聴き手:チカイケ秀夫 聴き手・文:ヤマグチタツヤ 撮影:天野裕樹
20年間、変わらなかったものは「シーンづくり」。
チカイケ:ネイキッドの作品制作において大切にされていることを教えてください。
村松:「シーンをつくる」ということです。
事業内容としては制作という領域の中で、様々なものを展開してきましたが、これらはあくまで手段であって本質ではないんですよね。
ただ、その中でも「シーンをつくる」ということだけは20年間貫き通してきましたので、これは作品づくりの本質に近いかな。
とはいえ、まだまだアウトプットできていることは自分の想像の一部分でしかないので、事業としてやっていることは”やりたいこと”というより、”今できていること”という感覚なんです。
チカイケ:「シーンをつくる」とは、具体的に言うとどういうことでしょうか?
村松:「世界観をつくる」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。
何かを新たに創り出すというよりも、「すでにそこにあるモノや場所などの”バックストーリー”を具現化して、その世界観を表現して伝えること」が、シーンをつくるということなのかなと。
現在、ネイキッドでは長野県にある「阿智村」という”日本一の星空の村”のブランディングを手がけているのですが、僕らは「日本一の星空の村」を新たに映像を加えて創ったというわけではなく、「すでにあるその村の魅力や背景を具現化した世界観」を創るということをしているのです。
その具現化に際して、CGやプロジェクションマッピングという技術、はたまたスクリーンなのかリアル空間の中でやるのかという場所といった”手段”に対して、僕らはこだわりを良い意味で持ちません。
これらはあくまで手段なので、一番フォーカスしたいのは「どうやったら世界観をより具現化できるのか?」というところ。
最近だと「デジタルアートに行きましたね」とよく言われるのですが、それはあくまで僕らにとってはツールでしかなくて、それに限ってないんですよね。目的が達成されるのであればドキュメンタリーだって撮っていい。手段に関してはトレンドに合わせて変化させて行くので、デジタルアート以外の最適な手段があればそれを使いながら表現していきたいと思っています。
もちろん、こうした制作が自分たちの独りよがりな自己表現になってしまうのではなく、世の中のニーズに合致しているかどうかということも前提条件として考えなければなりません。
まとめると、「すでにそこにあるものを素材として半分頂き、もう半分にトレンドに合わせた技術などを上載せしていく」ということをして、新たな世界観を創り出しているというイメージですね。
自分のアイデンティティをひたすら探し続けた学生時代。
チカイケ:「シーンづくり」という言葉に関して、村松さんご自身が役者というキャリアも持っていたからこその言葉だとは思うのですが、もともとはどういったきっかけやキャリアを通して創業に至ったのでしょうか?
村松:きっかけからお話すると、まずは「自分のアイデンティティ探し」がスタートだったんですよね。
自分で言うのもあれですが、学生の頃の自分は勉強もスポーツも割となんでも出来たほうでした。
ただ、「自分といえば〇〇」というものは持っていなかったんです。要は、器用貧乏だったんですね。
なので野球などで玉を速く投げるとかは普通の人より上手くできるけど、高校生くらいになってくると小学校から何年もずっとやってきた人の方がやっぱり自分より上になってくるんですよね。
どれもこれもが中途半端にできてしまったがゆえに、「じゃあ自分は何ができるんだ?」と自身のアイデンティティを探し始めるようになりました。
チカイケ:同様に自分のアイデンティティについて考えさせられた出来事はありましたか?
村松:学校だけでなく、家の中でも同様に兄と自分をよく相対的に比べていました。
自分には兄がいるのですが、彼はギターがとにかく上手だったんです。ギター初心者の壁と言われるFコードを軽々とクリアするようなタイプでした。
そんな兄がきっかけで自分も音楽を始めたものの、彼にはなかなか実力として届かずで…….。
一方で、兄は喘息持ちで不健康な一面があったこともあり、音楽を通してそうした病弱な立場だからこその自分の感情を表現をするようにもなっていったんですよ。
そんなこともあって、学生時代の自分は「自分のアイデンティティはどこにあるんだろう?」ということをすごく気にしていたし、欲しかったんです。
野球バカみたいな、いわゆる「〇〇バカ」になりたかった。
今でもその気持ちは根っこの方にあるので、漆塗り職人の方みたいな”1つの物事にのめり込む方”へのリスペクトとかは強くあるんですよね。
価値観の体現が、起業に繋がった。
チカイケ:「何者か」になりたかったのですね。そこから映画や映像を通じ、起業に至った背景を教えてください。
村松:そのようなアイデンティティを模索し続ける中で、自分はふとした流れから映画に興味を持つようになり、やがて役者を志すようになりました。
『ゴッドファーザー』だったり、『インディアン・ランナー』などの映画にその頃は影響を受けていましたね。特に『インディアン・ランナー』はショーン・ペンが役者でありながら監督・脚本をしていたのがとても衝撃的でした。
ただ、役者を目指したものの、実は4回も事務所を入っては辞めるということを繰り返していたんですよ。
チカイケ:4回はすごいですね。それはどういった理由からだったのでしょうか?
村松:自分はどうしても「自分の価値観」を曲げられない役者だったんです。
20歳〜25歳くらいまでの間で芸能事務所を1年ごとに辞めるということを4回繰り返していました。
当時はポストトレンディードラマというジャンルが流行っていたものの、自分はそこに興味がなかったんです。
また、自分の演技などのスキルではなく、自分のキャラクターで売っていくということを考えさせられたのも大きくて。
個人としては表に出たくはなかったし、売れ方も別に自分のキャラクターを売りたい訳ではなかった。
今思えばだいぶ生意気だったなとも思いますが、それでも当時の自分は仕事がない状態でも仕事を選んでいました。
チカイケ:自分のアイデンティティはそこではないと。
村松:はい。事務所の人からは何度も「あなたの言っていることは確かに正しいけど、世の中的に正しくない」と言われたんですよね。でも、当時は曲げなかった。
馬鹿みたいにストイックな表現者としての意識がありました。
そうした時に「じゃあどうするか?」となったら、もう自分でなんとかやるしかないんですよね。
そうして、「どうやったら自分の考えを表現ができるのか?」といろいろなものを探っていた最中、コンピューターと出会ったんです。その時はちょうど1995年くらい。
DTP(デスクトップ・パブリッシング)などの流れから音楽制作がコンピューターで出来るという話は出ていましたが、これからは映像も編集出来るようになるらしいぞというところで、自分はそれに賭けました。「自分でこれが編集できるようになったら自分で映画が撮れるんじゃないか?」と思って没頭しましたね。
そして「やりたいことをもっと大きな形で出来るようにしたい!」という気持ちの元、映像機材をたくさん買い漁っていく中で資金がより必要になった流れの延長線からネイキッドを創業しました。
そのため、僕自身は社長になりたくてなったという訳ではなくて、なるべき必然性がそこに生じたから社長になったというイメージです。
(つづく)
代表取締役 村松亮太郎
アーティスト/NAKED Inc.代表/大阪芸術大学客員教授/長野県・阿智村ブランディングディレクター。
1997年にクリエイティブカンパニーNAKED Inc.を設立以来、映画/TV/MV/広告/空間演出など様々なジャンルでのプロジェクトを率いてきた。監督作品は長編/短編作品合わせて国際映画祭で48ノミネート&受賞。近年では「FLOWERS BY NAKED」「TOKYO ART CITY BY NAKED」に代表される体験型アートイベントを手がける。
また、華道/茶道/香道/歌舞伎/能狂言といった伝統文化・芸能と先進の表現を掛け合わせたショーや、長野県・阿智村をはじめとする日本各地での地方創生イベントや文化プロジェクトに取り組むなど、自身の作品、そしてあらゆる人・場所とのコラボレーションを通して新たな価値と体験を生み出している。
作品集に『村松亮太郎のプロジェクションマッピング SCENES by NAKED』(2015, KADOKAWA)がある。
・NAKED Inc.公式サイト:http://naked-inc.com
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