【無名の酒がなぜ売れたのか 第7回<最終回>】
山梨県唯一の桜の名所百選・大法師公園の山王神社にて奉納を行った。
本菱単独の広告費はゼロ。
実は本菱として単独で打った広告費はゼロです。会社全体としてPR会社と契約したり、「まちいくふじかわ」のプロジェクトメンバー募集でフェイスブック広告を打ってみたりはしましたが、本菱単独での広告費はありません。ではどのように本菱の認知を得たのか。まったく無名のブランドを立ち上げた後の認知をどう獲得していくかという部分に関して、どのように考え、プランニングし、実行していったのかを書いていきたいと思います。
まず大きなハードルは、「まちいく」自体も初の試みだったということ。最初は新しい地域活性の試みとして、「まちいく」をはじめること。そしてそれを富士川町で行い、120年前にあった酒、本菱を復活させるというこの3段構えの論理をどこで、どのように発表していくか、ということを考えました。
そこで最初の発表の場として考えたのは、クラウド・ファンディングでした。2つのサイトを検討したのですが、もう一つはリターンが半年以内でないとダメなど制約が多く、結果、親身になって相談に乗ってくれた「Makuake」を選びました。今でこそ、たくさんの日本酒に関するプロジェクトが掲載されていますが、当時は2つ目だったそうです。クラウド・ファンディングは、当然ですが告知の時点では商品はありません。ということは、このプロジェクトの意義や、何を目指すのか(=ビジョン)などを伝えるしかなく、それがブランド構築との親和性を持っているのでは?という仮説がありました。2015年11月末頃から掲載を始め、このサイトを拠点にフェイスブックなどで積極的に呼びかける、という極めて人的な手法をとりました。一方で、純粋にフェイスブック広告で「まちいく」サイトへ誘引もしています。ここには月平均で3万円ほどの広告を出していました。
プレスリリースも毎月行い、12月末に山梨日日新聞と毎日新聞から初めての取材を受けました。それが年明け、大々的に紙面に取り上げられることになりました。いずれも山梨県内の人たちに向けてになりますが、一気に知名度が上がったのは言うまでもありません。その後、専門誌などからの取材が続き、記者のみなさんへ直接プレスリリースをお送りすることができるようになりました。毎月の活動の前と後に必ずプレスリリースを送り、進捗を報告していました。このおかげで、田植えや稲刈り、醸造見学、お披露目など、要所では必ず取材が入りました。また、発売前に山梨放送のYBSラジオに生出演したりもしました。
冒頭の写真、大法師公園の山王神社での奉納ですが、以前の連載にも書きましたが、山王神社は全国の酒蔵が崇める酒の神で松尾大社の主祭神「大山咋神(オオヤマクイノカミ)」とその妻であり、あらゆるご縁をとりもつ「玉依姫(タマヨリビメ)」が祀られていることがわかりました。そうとわかれば、奉納しないわけにはいきません。ここの神社を管理している方を探し、いつも祭礼を行っている神主さんにお願いして、特別に奉納をお願いしました。これも各社マスコミで報道されています。広報的に見れば話題づくりの一貫ですが、ストーリーに即したイベント。だからこそしっかりと意味を持って伝わるのだと思います。
プロフィールを見て頂ければわかることですが、私の新卒で入社した会社が山梨日日新聞・山梨放送グループでした。所属は広告代理店の制作局でしたので、新聞にも、放送にもそれほど知り合いがいたわけではありませんでしたが、同期や先輩たちを辿って、プレスリリースだけでなく、直接、自分の目指すところを話して協力を仰ぎました。この関係性は本当に大きく、大きくアドバンテージに働いたことは間違いありません。10年以上も前、ほんの数年所属していただけにもかかわらず、多くの人たちが応援してくれました。
大法師公園さくら祭りステージにて発表披露が終わった後の1枚。まだ桜は蕾の段階。
広告換算値は1000万円以上。
なぜ「まちいく」自体の始まりを、山梨県富士川町にしたかというと、いくつか理由があります。もともと自分の実家が本菱をつくっていた酒蔵だった、ということ。そして富士川町自体が、富士川舟運で栄え、米が集まったことから酒蔵が多かったこと。山と川しかない典型的な過疎の町をモデルに新たな地域活性の取組が成功すれば、それは全国にも移転可能であること、などが理由でしたが、自分がメディア側と多少でもつながりがあることも、もちろん理由のひとつでした。取り上げてくれる保証は当然ありませんでしたが、ゼロよりは可能性があると思いましたし、ブランド開発を行っても、知名度をどう上げるか、ということはとても大きく、重要な問題です。ここで財力があれば広告ができるわけですが、私たちにそのお金はありません。だとすると、自分が持っているつながりは最大限活かすべきだろうし、何よりもこの試みは、メディアにも取り上げてもらえる自信もありました。
結果、全国紙を含め、いろんなメディアに取り上げていただきましたが、ざっと計算しただけでも1000万円以上の広告換算値になっています。
この認知獲得の肝は、「まちいく」という、初のプロジェクトメンバーの募集と、本菱の告知をほぼおなじ段階から行ったことです。つまり本菱というブランドの側から見れば、復活プロジェクトそれ自体を認知させるという手法をとることで、参加はできないけど、遠くから応援してくれている人も巻き込んで、カウントダウンのようにして復活まで展開していったということです。1年かかるプロジェクトを「見える化」することで、徐々に認知を獲得していきました。地道なフェイスブックでの告知も当然やっていますが、その間にメディアで取り上げられることで、またWebサイトなどに注目してもらえるという流れがつくれたことが大きかったと思います。
また、実際に販売するときには、プロジェクト参加メンバーからさらに先のつながりで、どんどん広がっていったことは、とても驚くべきことでした。特に山梨在住のメンバーは県内での本菱の知名度がどんどん上がるに連れて、親戚や友人、行きつけの居酒屋など、いろんなところでPRしてくれました。メンバー内で企画して、道の駅富士川で出店を出してくれたこともありました。人の縁で広がっていったことも、今回の本菱の「ご縁を喜び、ご縁に感謝する」というコンセプトともよく合致していました。
世論が動くことで、自治体である富士川町もさらに協力してくれるようになり、大法師さくら祭りでは、ステージ上で志村町長、そしてさくら祭り実行委員会の石川会長を迎え、発表披露の式典を開くことができました。山王神社での奉納にもお付き合い頂き、その後、町内にある「いち柳ホテル」での懇親会では、山梨県議会議員の望月利樹氏も駆けつけていただきました。他、町の広報誌にも掲載され、来年からはふるさと納税の返礼品にもなります。
山梨では一定の認知を得たと思います。「お酒と言えば?」と聞いて「本菱」と答えるまでにはさすがになっていませんが、本菱と聞けば、知っているという人は一定数いるでしょう。今後の課題としては、一番愛されたい人がいる東京での認知をどう獲得していくか、というところです。青山フラワーマーケットでイベントを行ったり、ソムリエ田崎真也氏がオーナーの日本橋にある「Y-wine」で、田崎氏のイベントで取り上げていただいたりと、少しずつですがじわじわと広がってきています。
理屈ではない幸運にも恵まれました。メンバーには南アルプス市在住のデザイナー・岡谷泰士氏や富士川町在住の映像ディレクター大堀力氏が参加してくれていて、デザイン面や映像面で多大な協力をいただきました。またメンバーの中にはWebに明るい者もいて、本菱のブランドサイトの制作で協力をいただきました。こういう一芸を持った仲間たちに出会えたことも、ブランドイメージを管理する上で、とても幸運でした。
今回は手法と運の話になりましたが、これらを活かすにも、やはりネタが大事。ブランディングしていく中で、何をビジョンにするのか。そしてメッセージする時のコンセプトは何なのか。ここを一番大事にしなければならないことは言うまでもありません。
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